昭和44年12月17日 夜の御理解



 只今、御祈念にかからせて頂く前に、ここに今、私が敷かせて頂いておる座布団のお供えを頂いたんですけれども。これは、紫の座布団です。まあ、それに因んで、その、ここでは色々な、この色を持ってお知らせを頂きます時ね、この紫の色というのは、安心の色と頂きます。あの、はじめ、まだ初心の方達がここへ参って、一生懸命御祈念をしておると、目の前がもう、何か知らん、真っ赤になったり、青くなったり、紫色になったり、御心眼のはじめにそういうものを頂くんです。
 だから、目の前が、この、見事な紫の色になったりした時には、願い事がもう心配はいらんといったような時ですよね。そういう時にお知らせ頂くのが紫なんです。これはまだ、あの椛目時代でしたけれども、ある私はお願いをさせてもらったら、御心眼に頂きますのが、あの歌舞伎十八番にありますあの何ですかね。助六のお芝居がありますよね。その助六が、こう鉢巻をしておる捻り鉢巻紫の鉢巻ですよね。
 あれを頂きますもん。どういう事だろうかと思ってから、お願いさせて頂いとったら助六が、あの花道であの傘を持ってね、決まるところがあるでしょうあそこ。それから、あの、この紫から傘のお知らせを次に頂いた。ここであの傘のお知らせを頂きますと、安心とこう言うですね。この信心させて頂く者は、やはり信心させて頂くと言うが、その人間やはり様々な不安があり心配がある。
 だから心配する心で信心せよと、こういう事になる訳ですけれども。今朝あたりからの御理解を頂くと、この心配する心で信心せよというような事も、大変な難しい事ですね、実は。なぜかって言うと、その自分が本当に無力だと。いわゆる障子一重がままならぬ人の身と教祖が仰っておられる。そういう自覚に立つ時にですたい。人間私共の知恵やら力、何も出ける事はないんだと分かる時ですね、すがらなければおられない。
 そこに不安があり、焦燥がありと言うのです。だからこれはまあ大変難しいんですけれども。まあだいたい信心をさせて頂くそのはじめというのは、普通は平穏無事な時は何でもないけれど、何か心配事が起こって来ると神様じゃ、仏様じゃとこう言う訳なんです。まあそういう程度の、まあ次元の低い意味合いにおいての心配ですね。そういう心配事のほとんど願いが多いんですけれどもね。
 本当は、もう、信心もだんだん進めて行って、自分の信心、そのギリギリのところを極めると、人間は、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという事実に直面するです。いわゆる、我無力という事が分かるんです。無力だから、ここに、大きな力にすがらなければおられないのが、実は人間なんですよね。そういう意味ですがそのだからいつも傘を外すなという訳なんですね。
 安心傘を外すなという事は、例えば少し曇って来てまいりますと、はぁこれは降りはせんだろうか。ただし傘を持っておると、心配ないという訳なんです。ね。もちろんこれが照って来ると、また傘をさせば、暑い中にでも暑い思いをせんで済むと。降って来ても濡れんで済むというおかげが受けられる訳ですけれども。傘を持たないところに、不安がある。はぁ途中でこれは濡れはせんだろうかと思う訳なんですよ。
 それで私共がいや傘という、傘というその神様をいつも外してはならない。はぁ今日はもう天気だからと思うて、平気で行くような事じゃなしに、今何でもないからではなくてです。いつでも、自分の心に神様を頂いておる、神様という傘を持っておるとです、もう、いつ、どんな場合でも、傘があるから、神様を頂いておるからという安心があるという訳なんですね。ははぁそこからあの傘のお知らせを頂くと安心、紫の色を頂くとあぁそれは安心だということ。
 実は私も今日は、ちょっと明日の事で、ちょっと心に不安になる事があったんですよ。して今私こう座布団を頂いた時にですね、これに座らせて頂いた途端に、何かしら安心の気持ちが開けて来るんですよね。はぁ神様がどっかとここへ、その安心に腰掛けとけという事だとこう思ったんです。それからまたあの紫の色について、こんな事があるんですよね。ある方が、非常に信心も出けますしけれども、ところが生身を持っておる人間ですからね。三角関係が出けたんですよね、その方の上に。
 もうそれはもう大変な悩みでした。けれどもそこがね人間ですから、どうにも出けない。もう奥さんとの間にももう愈々、別れる別れないの瀬戸際まで来たんです。その時にですね、その私は薄々知ってはおりましたけれども、なかなかお取次ぎを願うてからまでの事になって来ない。なかなか先生から怒られはせんじゃろうかという気持ちがあったんですよ。それからもう切羽詰られてからのお願いでございましたがね。
 そん時にこういう歌を頂いたんですよ。あの紫の恋や時雨炬燵かな、という句を頂いたです。紫の恋や時雨炬燵かな。それはね心配な事はないて。続けておってもいいって。家内が別れるちゅうなら別れてもいいていうような事だった。それからですね、まぁあのそれはどういう意味かと言うと紫やという事は、私は安心だと、そん時思いましてね。あの、時雨炬燵というのは、ご承知でもありましょうけれども、あの「紙治」というお芝居がありますよね。いいお芝居です、大阪芝居、上方芝居です。
 いわゆるあの、小春と治兵衛の恋物語ですよね。ですからもうそれは何とも言えん、その恋の、まあ趣と言うですかね。情緒面々たる、そのまあ、恋愛に落ちておられたんですけれども。そのちょうど、時雨炬燵。あれが、もう普通から言ったら、心中沙汰にもなり兼ねない、夫婦別れにもなり兼ねないというところなんですよね。あの紙治と同じこと。けども、こちらには紫やがついてるんです。
 という事はどういう事かと言うとねその、お取次ぎを頂いて神様にお願いをしながらの事だという事なんです。だから家内が別れるっちゅうなら、別れてもいいという腹でおれ。と言うてこれを自分の知恵やら力でここまで来たものをね、自分で断ち切るというような事も、また出来もしない。けれどもそこんところを、お取次ぎを頂いて、おかげを頂いて、それから間もなくでしたよ。本人が病気になられたんですよ。
 病気になられたですね。だからその辺りは知っちゃったです。それから半年余り、その病院に入院しなきゃならなくなった。さあ今まで別れると言いよった奥さんも、という訳に行けなくなったんです。ところが相手のその人は、水商売の人だったんですね。やっぱり、その本人も立派ですけども、第一は金の問題ですから。そのそれが切れたんですね。それで、他の方に関係が出けて来るようになり、他に移られるような事になって、もうそれこそ、もうあんまり痛げ痒げもなしに別れられる事が出け。
 病院から半年後に入院される時には、もうそれこそ今もここで夫婦が、もう本当に珍しい信心の稽古が出けておられて、そん時の事を言われてですね。あん時にもし信心がなかったら、今頃はどげんなっとるじゃろうかと言うてね、なるほど紫や時雨炬燵かなだった。人間様々なこの神様はねああしちゃならん、こうしちゃならんという事は、絶対ない神様なんです。これはもう極端な話ですけれども。
 例えば、久留米に大変こう霊能者の方がおりましてね、仏様から色々お知らせを頂く訳なんです。そしてその仏様がその当時、朝日屋というデパートへ行ってですね、あれを持って来い、これをもって来いって言わっしゃったそうですたい。それで貴方デパート行ってから、それをガバッと持って行きよんなさっ時に捕まえられてですね。それからそのまあ、警察沙汰になったんですよ。
 ところがその方の兄さんに当たる方が、久留米で有名な弁護士さんじゃったんです。それで、まあ何なしにおかげを頂いたんですけども。その人曰くですよね、デパートにあれだけあるけれどもあれは人間のじゃなくて、皆んな仏様のモンだという訳です。だからもうあちらから、こちらへ持って来るだけじゃから一つも罪にはならんとこう言う。成程この神様の世界仏様の世界から言うと、そんなもんなんです。大体は。
 そのかわりに、その自分の物もない訳なんですここにはね。一切が神様の御物だという見地に立つと、そういう事になって来るけれど、そこはしかし人間です。ですから人間の道を外れたら、やはり警察のご厄介にもならなきゃなりませんけれども。そういう事をしよるから罰かぶるといったような事じゃないですね、実際はただ人間の世界に掟があって、それを曲げてはいけないというだけの事なんですがね。
 極端な事を言うとそうなんです。そこにあるものも、神様の御物なんですからね実は。ですから、例えば人間の生活の上に、様々な問題がありますけれども。例えばああしてはならん、こうしてはならんと言う様な窮屈な事はない。それによって心がその、苛まれると言った様な事は必要でないという事なんですね。ただ問題はあのそういうどんな場合であってもですね、そこからの信心が生まれて来れば良いということ。
 今朝からのあの御理解の中に、あの芭蕉のさが日記の中から、御理解を抜粋して頂いとったですね。あれは例えばこの喪に服しておる時ですね。例えば身近な者が死んで喪に服しておると悲しい時。それでもね、そのその時にはもうそのものが、主であれば良いと、芭蕉は言っておるですね。例えばその憂いのある時には、憂いが主だと言うております。いわゆるその憂いのある時、悲しい時その悲しい事がそのまま、もう俳句になって行く訳ですね、芭蕉の場合は。
 嬉しければ嬉しい事が、もうそこに俳句という、この形になって現れて来る。いつもその中からでなからなければ味わえない境地が開けて来るんだというわけです。信心も同じこと。どのような中にあってもいい。けれどもそこからです、例えばそういう事にならなければ頂けない信心の味わいというものを味わうて行くという事は、どのような中にでも神様を外すなという意味なんです。例えば、私どもから申しますと。
 それは決して、その三角関係なんかを、その宣伝する訳じゃありませんけれども。万一、そのような事になった場合であっても、赤裸々にお取次ぎを頂いて、実はこういう破目になっておりますと。私も家内も、その相手も実は苦しんでおります。けれども人間生身を持っておりますから、どうにも出けないところにありますという時、人間は、いわゆる心中沙汰にでもなる訳なんですけれども。
 そこんところが、信心のある者はです、その事そのものを、そのものずばりにです、お取次ぎを頂くのです。それで、家内が別れると言うなら、別れたっちゃええというドン腹据えたところにですたいね、そこに、もう不思議な天地が動きなさるような事が起きて来てるわけね、その人の場合であっても。そしてご自分が半年養生をして帰って来られる時には、それが全部解決して。
 昔の仲の良い夫婦という生活が出け、相手にも傷つけずにですね、円満解決のおかげを頂いて。現在ここでもそれこそ熱心な信心して。そしてこの年あの、あの時にもし信心がなかったら、今頃はどういう事になっとっただろうかね、と言うて夫婦顔見合わせるような事に、結果になっております。ですから、そこんところから、どのような場合であっても、そこから神様を頂いて行くということ。
 なるほど、紫や時雨炬燵かなですよね。これは私も今日この紫の座布団を頂いてね、私の心の中にちょっとあるその不安がです、何か知らん、これで私の心の中に安心が生まれたというような気が致します。信心の目指しというのは、私どもが我無力障子一重がままならぬ人の身であるという事を、分かれば分かるほど、実を言うたらもう目のその1分間先の事が、その不安でたまらないのが、本当なのです。
 それを私どもはですね、平気でおるという事は、言うならば横着な心なんですよ。ですから、私どもは神様にすがらなければおられない。そこから生まれて来るもの。神様にお任せしてある。そこから生まれて来る安心。それを信心で言う安心の心境地だと、こういうわけですね。まあまたその目指すところは、その安心の境地が、信心の一番の目指しと言われております。
   どうぞ。